小牧城下町研究のあゆみ

更新日:2017年08月31日

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城下町の発掘調査

城下町研究の歩み

永禄6年(1563年)、織田信長の小牧山城築城に伴い城下町が形成されたことは、古くから知られていた。江戸時代に編さんされた「尾張徇行記」には、小牧村について「元小牧ハ昔時城府ナリ」と記されている。「信長公記」からも家臣団が引っ越ししたことが明らかで、当然、その生活を支える商工業者も移転したと考えられる。しかし、具体的な記述に乏しく、どの程度の規模の町であったか、どのような形態であったか、明らかでなかった。

小牧市では、一般に尾張徳川家との関係が強調される一方、信長の城下町は希薄な存在であった。信長の城下町が数年で岐阜へ移転したこともあるが、その後の小牧・長久手の合戦で後に小牧村の庄屋を代々勤めることになった江崎氏が長久手に向かう徳川軍の道案内をし、徳川家との関係が始まり、江戸時代には尾張徳川家の領地となった。尾張徳川家は徳川家康が天下を 取るきっかけとなった小牧山を重視し、「神君家康公ゆかりの地」として一般の入山を禁止し、保護した。このような中で、小牧・長久手の合戦の舞台としての小牧が強調され、信長の城下町は希薄な存在となっていき、小牧市民の間でも、信長の時代には、美濃攻めのための砦があった程度で、町の存在は忘れられている状況であった。

研究者の側でも小牧山城が信長の美濃攻略と時を同じくして築かれたため、最近まで小牧山城自体が美濃攻略の前進基地というイメージで語られることが多かった。小牧山城を本格的に取り上げた研究もなされないまま、町を持たない城、または、城下町は小規模であったと推定されてきたのが実状であった。

そのような中、昭和63年に前川要氏が明治17年地籍図の分析から小牧城下町を長方形街区と短冊形地割が最初に出現する織豊系城郭の初源的形態と位置付け、翌平成元年(1989年)には千田嘉博氏が最新の城下町研究の方法論を駆使して小牧城下町について復元的な考察を発表し、再び注目を集めるに至った。

昭和63年度から平成元年度にかけて、小牧市教育委員会は市内の詳細分布調査を実施した。従来、小牧市では面的な遺跡の把握が十分でなく、遺跡分布地図に集落跡はほとんど掲載されていない状況であった。城下町推定地は都市化の著しい地域で、すでに滅失した部分も多いが、この調査の結果、城下町推定地で多くの遺物散布地を新発見した。その後、表面採集遺物の詳しい検討を行ったところ、信長以前の中世の遺物はほとんどなく、城下町推定域では、信長の小牧山城建設時に町が新たに建設されたと推定された。

城下町の東部にあたる小牧中学校の移転用地(現小牧中学校)での発掘調査(新町遺跡)によって、城下町の存在が初めて実証された。試掘調査とその後の本格的な調査によって、町は突然出現し、わずかな期間で廃絶されたことが判明した。また、明治17年地積図とほぼ同じ方位の溝を各所で検出し、武家屋敷跡や下級武士の居住域とみられる短冊形の地割りで溝や井戸、土坑などを発見した。この調査結果は、千田嘉博氏が行った小牧城下町の復元的考察に、おおむね合致するものであった。

現在は、区画整理事業に伴い城下町の西部に位置する上御園遺跡(紺屋町・鍛冶屋町・新町の推定地)での発掘調査が進んでいる。遺構の密度が高く、鍛冶関係の遺物が発見されるなどしており、商工業者の集住域での城下町の構造が明らかにされることが期待される。この調査によって、城下町の西部でも、明治17年地積図に記された地割りが信長の時代に出現するが、ここでは江戸時代の初めまで存続している点で異なることが判明した。

城下町の名残の町場は、元和9年に現在の小牧中心市街地の位置へ宿駅として移転するまで存続したことが知られており、城下町の西部では、信長が岐阜へ去ったあとも、規模は縮小したと思われるが、引き続き町の一部が存続していたことが実証された。

小牧城下町周辺略図のイラスト

小牧城下町周辺略図

元和9年、尾張藩の命により、城下町の名残の町場が小牧宿へ移転して現在の中心市街地の基礎が形成された。

平成14年小牧山空中(南から)の写真

平成14年小牧山空中写真(南から)

小牧城下町発掘位置図
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