文献資料

更新日:2017年08月31日

文献資料(関係分抜粋)

信長公記首巻

「上総介信長奇特なる御巧みこれあり。清洲と云う所は国中、真中にて、富貴の地なり。或る時、御内衆悉召し列れられ、山中高山、二の宮山へ御あがりなされ、此の山にて御要害仰せ付けられ候はんと上意にて、皆々、家宅引き越し候へと御諚候て、爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしらへ候へと、御屋敷下され、其の日御帰り、又、急ぎ御出であって、弥、右の趣御諚候。此の山中へ清洲の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、上下迷惑大形ならず。左候ところ、後に小牧山へ御越し候はんと仰せ出だされ候。小真木山へは、ふもとまで川つゞきにて、資材雑具取り候に自由の地にて候なり。どうと悦んで罷り越し候ひしなり。是れも始めより仰せ出だされ候はゞ、爰も迷惑同前たるべし。」

三河物語

「早関白殿、十万余騎引連れて、宇留間を越て犬山へ押出て、小牧山を取らんとし給う処に、家康早くかけ付させ給ひて小牧山へ上がらせ給へバ、関白殿も手を失ひて、小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり。小牧山にへハ柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。土手の際までかけ付かけ付して、十万余之人数に面を出させ給ハず。」

寛文村々覚書

「一小牧山古城跡松山東西弐百八拾六間南北百四拾間先年、信長公御居城。」
張州府史

「【小牧城】在小牧山。弘治二年織田信長自清洲移居于此。移徒之日。使紹巴聯句祝之。溝塹閭閻巳就。時攻濃州遂齋藤氏。抜井口城。因移居更名曰岐阜。故廢小牧城。今所謂山小牧。間々。西嶋。村中等諸邑。皆屬城下。」

尾陽雑記

「小牧山。本城。東にて。南北へ十三間半。西にて南北十九間四尺。南にて。東西へ十三間。北にて。東西へ十九間弐尺但古は殿守有之よし、今は本城の少南に愛宕の宮あり。此外曲輪數おほく、土居堀のかたち今にたしかに見ゆ。
南に大手口あり此道坂也。本城まで五曲り。右の外口三ヶ所。東方の口、むかしは馬出有之由、所の者申す。今は木津用水の川筋になる東城の南西之間、山の中分に井有、車井戸と申傳。」

「小牧城。春日井。近年小牧におゐて馬市立ん小牧山城あり、四方三重堀、山下より酉の方惣かまへに堀有、山下より西東の方沼田。今は田と成る。
城は小牧の郷より酉戌にあたり、小牧より山下まで百六十四間。
信長取立為居城、清須より此所へ移らる云々。」

尾張徇行記第三巻

「元小牧ハ昔時城府ナリ、サレハ田間ニ今新町鍛冶屋町紺屋町油屋町伊勢町御園善光寺筋池田屋敷ナトイヘル名目ノコレリ、小木村界ニ総堀土居升形ノアトアリ」

「村ノ名ヲ船津トイヘル所以ハ、昔時小牧ニ織田信長在城ノ比、村東ノ方ニ堀江アリテ船多ク運漕シ、此村ヘ着岸セシ故、其名目アル由来ヲイヒ伝ヘ、今ニ至リ小木村ノ西界ニ沼アリ、其地形如帯ナリ、昔シ此江ヲ埋ムニ旧キ■木ヲ用ヒタル由土人イヘリ、今巾上松林ノ麓ヨリ、元小牧ノ方ヘツゝキタル所ニ、柏瀬トイへル所アリ、是モ古ヘ川ノ趾ナル歟、此巾上長キ崇岡ナリ、其アタリヲ総堀山ト云テ松林詢美ナリ、是小木村ノ界也」

正事記

「其時の諸大名の屋敷、取手の跡有り、隣山をはなれ、峰高うして、嶺平也」

小牧山旧記

「追手口南ニ有、麓ヨリ峯迄坂道五曲有、追手口ノ外ニ西ノ方一口東ノ方二口、一口は馬出ノ口、有、北ニ口有、戊亥に口有、峯西ノ方曲輪、幅拾六間、長弐拾三間、西峯ノ北ニ当ル所観音洞ト言往古此洞ヨリ観音一体掘出ス、今間々村浄土宗飛車山竜音寺ニ安置ス、山ノ中腹ニ馬場有二反程平地、北東ノ方ニ井一ツ有、観音洞ニ井一ツ有、北ニ井一ツ有、戌亥ノ方ニ池有、今ハウヅモレ浅シ、山ノヨリ戌亥ヘ流ル川有是ヲコリトリ川ト言、是ハ往古ヨリ自然の川ナリ、上流ハ二ノ宮楽田内久保久保一色村ヨリ流ナリ、山ノ北古ハ沼ナリ」「元小牧之内ニモ数ヶ所屋敷形チ成場所アリ、小牧山ヨリ八町余、南ノ方惣堀ト唱候所有、東西長十町余幅二間深九尺程の堀ナリ、元小牧町ノ名北南ノ筋御園町紺屋町鍛冶屋新町、東西ノ筋油町善光寺筋、今ニ至迄字ニ唱申候、是ハ天正年中ヨリ以前信長公小牧山エ御城ウツサレタキ思召有之候内ニ不図阜府城御手ニ入小牧エ御城ヒケ候義相止リ候其時節右町割之名附候事」

三巻本武功夜話巻之一

「春日井ノ地ハ古来定マラズ、定ル領主無く土豪競ヒ立チ天文・弘冶ノ間領主不入ノ地也、牢人、野武セリ、盗賊多ク屯シ、今日ハ織田、明日ハ松平、斎藤ト、孫九郎尉ハ是等ノ束也、カクテ織田上総介信長公、尾張国ノ太守ト為ル、小牧山ハ春日井原ノ最只中ニ位シ高キ山ナリ、原ノ只中ニ一ッノミ小高キ山有リ、此ノ山ニ城ヲ築キシ人無シ、上総介殿国中統一成、仍而此ノ山ニ城ヲ築ク、此ノ山ニ上レバ美濃ハ指呼ノ間、遠クハ伊勢・三州ヲ望ミ得ル要地ナリ、然シ乍ラ孤立ノ山也、正ニ信長殿ナラデハ成シ得不可ルノ城也、天正小牧合戦ニ於テハ東照神君、此ノ陣ヨク豊太閤殿相対シ、雌雄ヲ決サル、亦因縁深キ山也、織田上総介殿小牧山ニ城築カレル国中郡内郷村ニ布告有リ、(以下略)」

三巻本武功夜話巻之二

「永禄七年織田上総信長殿、春日井郡小牧山ニ美濃斎藤氏ノ備トテ山上ニ城ヲ築カル、此ノ城二重楼ニシテ屋根ハ葺ニテ葺レ、白壁朝日ニ輝イテ尾張随一ノ城ニテ、遠国近国ノ旅人シバシ足ヲ留メテ此ノ城ヲ賞シザル人無シト、小牧ノ里ニハ清須ヨリ商人諸工人数多移サレ、市立ノ儀相調ヒ、町ハ殷賑ヲ極メ日毎商盛也、此ノ城天正小牧合戦ノ時、東照宮君徳川家康殿、此ノ城ニ拠テ太閤殿下羽柴秀吉殿ト雌雄ヲ決セラル、天正小牧山合戦ノ後、毀サレシトゾ、今ノ世其ノ城ノ名残トテ堀ノミ残レリ、斯クテ小牧ノ城成ッテ、上総殿東美濃ヲ征セラル、(以下略)」

二十一巻本武功夜話巻二

「小牧山新城の事
(略)一、足軽長屋拾弐棟。殿様の御屋館は山麓広げ候処土居高く設け、一の御門、二の御門、南北五拾有余間、その間には侍屋敷立ち並び大道南北に走り枡に仕切り増る。拾八割上郡に比類なき新地にて、山の頂には二重なる高楼そびえ立ち増る。屋上の楼は高殿にて三間四方欄干は手すりを設け増る、この高殿より一望しますれば尾張国中は元より美濃・三河を、遠くは勢州まで一望たり。されば往還往来の旅人しばし足を留め、白壁朝日に照り輝き増る高楼を望み、あれこそ今川冶部少輔を楽田迫間にて討ち取られ、天下に聞え高き織田上総介信長公の城なるやとて、さも目出度き事よとてめではやされ増る。屋根には萱にてふき厚く候。ここに信長様は清須より御家来衆は元より、あきない人、諸職人移し増れば、近国よりあきないを業といたす人々、この小牧の新町に集り来たり町は殷賑をきわめ市立ちの儀相立ち候いて、年寄衆御城へ招き町役人等定められ、小牧の町は日毎に栄え行き往還また人馬の往来繁く、信長様の御徳の然らしむるところならば、町人さても目出度き事よと喜び増る由。」

「小牧御城構えの覚の事
一、御山麓南、侍屋敷これあり。午の方位は御土居をめぐらし、木戸二ヶ所これあり。南北へ五十有余間、東西へ八十有余間これあり。南木戸より中道二間、横道二間、枡に仕切り十八割これあり。足軽御長屋十二棟、厩五十間東西なり。御城は、二層、屋上に楼を設けて三間四方。欄干より眺望雲煙十里、尾張国中は勿論の事、美濃、三河、遠くは勢州を一目の中なり。しからば往還の路次通行の旅人しばし足を留め、御城ながめて恐れ入り、あれぞ駿州今川冶部少輔を討ち捕りたる、天下無双の御大将、織田上総介信長様の御居城成る哉、さてさて熾んなる事に候よと語り合い、町屋に立ち寄る人日毎に数を増し繁昌候由に候。急造作に付き、屋根は茅葺にて、遂には瓦にて葺きなされ、井の口稲葉山へ御移り相成るにより、この御城築城より両五年にて御取り毀しと相成るなり。」

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