史跡小牧山主郭地区第7次発掘調査
更新日:2017年08月31日
史跡小牧山主郭地区の発掘調査は史跡整備に伴う事前調査のため4ヵ年の試掘調査と6ヵ年の発掘調査を経て、平成26年度が11年目になります。
今回の調査と過去の調査成果から、永禄6年(1563)に織田信長が築いた小牧山城の姿が徐々に明らかになってきています。
- 遺跡名 小牧山城(国指定史跡 小牧山)
- 調査面積 約200平方メートル
- 調査期間 平成26年11月~平成27年3月(予定)
3段目の石垣を確認
これまでの主郭地区の調査では段築状に築かれた2段の石垣(石壁)や北尾根の一部に3段の石垣を確認し、小牧山城の中心部は概して2重の石垣で囲まれると想定していました。
最先端の姿「石の要塞・小牧山城」
しかし、今回の調査で北~北東斜面に3段目の石垣が延びていることが平成27年1月に判明し、周囲を取り囲む可能性が出てきました。過去の試掘調査で主郭下段の曲輪でも石垣を使用している様子を2箇所確認していることと併せると、幾重もの石垣に囲まれた「石の要塞・小牧山城」という当時の最先端の城の姿をうかがい知る大きな手がかりが得られたのではないかと考えられます。
三段目の石垣は「腰巻石垣」
今回確認した三段目の石垣の構築状況の観察から、三段目の石垣は擁壁としての機能を重視した腰巻石垣で、主郭下段の帯曲輪(曲輪051)の平坦面をより幅広くする目的があったと考えられます。地盤の加工状況(地業)や造成状況を見ても計画的な設計意図をもって築城工事に臨んだことを伺わせます。
この石垣は永禄6年(1563)織田信長築城時のものと考えられます。当時30歳であった若き信長が手がけた初めての居城づくり、「城に石垣を使う」という初めての試みであるにもかかわらず、先進的な設計構想と高度な技術により出現した「理想の居城」です。
(注意)腰巻石垣とは、高さ2メートルのうち下半分(約1.0~1.2メートル)を石積みで腰巻き状にした石垣で、小牧山城では初めて確認されました。
信長の発想はどこから?深まる疑問!
近年の調査と研究により、小牧山の南に展開した小牧城下町の先進性と併せて、小牧で具現化する信長の城づくり、まちづくりがその後の城郭や城下町に影響を及ぼしたと考えられるようになってきましたが、当時の「非常識」を後の「常識」に変えてしまう信長の発想がどこからもたらされたものか、疑問は深まります。
現地説明会が開催されました
平成27年2月14日(土曜日)、発掘調査現地説明会を開催し、約700人の見学者が訪れました。
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