織田信長の小牧山城

更新日:2017年08月31日

帯曲輪地区東部の発掘調査の概要

織田信長の小牧山城

縄張り

永禄期武家屋敷配置図

永禄期武家屋敷配置図

小牧山城は永禄10年の廃城後、小牧・長久手の合戦時に大規模な改修が施され、また、永禄期の小牧山城の縄張りを示す絵図面等も残されていないことから、現在残る城郭遺構が、永禄期の造営になるものか、天正期の改修によるものか、地表観察だけでは明確に区分することは困難なものが多い。旧小牧中学校用地部分についても、「春日井郡小牧村古城絵図」には南東の曲輪402部分を除いては二重の土塁で囲まれた長大な帯曲輪として描かれ、永禄期の縄張りを推定することは困難であった。しかしながら、「昭和2年地形測量図」の検討から、帯曲輪を区画する堀の存在が推定され、発掘調査により、一部ではあるがその推定が裏付けられた。
発掘調査では山裾から天正期の土塁へ放射状に延びる堀を検出し、その堀が土塁の下へと続くことから永禄期の遺構であることが判明した。平成12年度の調査では、曲輪405-1bにおいて土塁の積土下から井戸が発見され、この帯曲輪を区画する堀が永禄期の武家屋敷を区画する堀であることが明らかとなった。
武家屋敷の区画の規模は、堀と堀の間隔から一辺45メートルであり、東側には江戸時代に開削された木津用水が流れているため明らかではないが、方形区画であったものと推定される。
武家屋敷は小牧山城の北麓から東麓にかけて連続して配置されたと見られ、昭和62年に実施した虎口f(搦手口)の調査時に検出した溝2条も武家屋敷の堀であると考えると、麓に配置された45メートル級の武家屋敷は10区画程と推定される。武家屋敷群の南端には75メートル四方と規模の大きな武家屋敷 (曲輪402)が築かれ、他の区画とは規模が異なることから、信長の居館ではないかと考えられている。
旧小牧中学校用地内においては、天正期の土塁築造時に土塁裾部から約14メートル山側へ至ったところまで土塁の盛土として利用するため削平が行われており、また、現代においても中学校造成に伴う削平により、土塁の下層では永禄期の包含層や遺構が遺存しているものの、それ以外の部分では地山に深く掘り込まれた堀や井戸などの遺構以外はほとんど残っておらず、永禄期の武家屋敷内部の状況は明らかになっていない。曲輪402の南に隣接する曲輪401についても、校舎建設時の掘削等により、永禄期の状況はほとんど不明である。

発掘概要

武家屋敷を区画していたと見られる堀SD15・SD11・SD13・SD05を検出し、昭和2年地形図の検討と検出された堀から曲輪を次のとおり想定した。

曲輪405北から405-1c、405-1b、405-1aの3つの曲輪に区画されると推定されたが、曲輪を区画する堀が確認されたのは405-1aを形成する堀SD15および堀SD11のみであった。

曲輪404北側を堀SD11、南側を堀SD13で区画される。中学校当時は北門として利用されていた部分であり、天正期の土塁を削平するなどの改変が行われた。また、中学校建設時の削平は永禄期の黒色土面にまで及び、他の地点と同様、検出された遺構は堀などの深い遺構に限定される。

曲輪403403-aと403-bの南北2つに区画されると推定された。

曲輪402小牧山城内で最大規模の武家屋敷を形成する曲輪で、昭和2年地形測量図でも曲輪を囲む土塁や堀の痕跡が明確に残る点でも、他とは異なる。発掘調査では北辺を形成する堀SD05およびその南側の一部に土塁の痕跡を検出した。SD05は曲輪の北西角まで続かず、この部分で北側に隣接する曲輪403-aとの通路が想定される。

発掘調査状況(堀SD13)の写真

発掘調査状況(堀SD13)

発掘調査状況(堀SD05)の写真

発掘調査状況(堀SD05)

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教育委員会事務局 小牧山課 史跡係
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