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史跡小牧山の沿革 小牧・長久手の合戦

更新日:2017年08月31日

史跡の沿革

小牧・長久手の合戦

配陣図のイラスト

小牧・長久手の合戦小牧周辺の配陣図

永禄10年に信長が岐阜へ去り、小牧山城は廃城となり、小牧村庄屋の江崎氏が小牧山守として管理にあたった。信長の小牧城下町は、規模を縮小しながらも、存続していた。天正10年に信長が本能寺に倒れてから、後継者をめぐる争いが起こる。天正10年から信長の子の織田信雄が尾張を領国とし、清須城を居城とし、尾張を支配していたが、羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の合戦が起こる。
天正12年3月13日、秀吉軍は、犬山城を攻略して、清須をめざし南下しようとした。信雄は徳川家康に援助を要請し、家康軍は、3月16日、秀吉軍を八幡林の戦いで敗走させ、秀吉軍の南下を阻止すると、3月18日から小牧山城跡の大改修を開始し、22日には陣城が完成し、ここにたてこもった。同時に、小牧山の陣城を本陣として東に向かって連砦(蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、田楽砦)を築き、軍道で結び、南への進路を遮った。秀吉軍は、3月27日に秀吉自身が犬山城に入り、小牧山の東方の最前線に 二重堀砦を築き、田中砦、小松寺山砦、内久保砦、外久保砦、岩崎山砦、青塚砦と小牧山を半円形に取り巻くように東から北に連砦を築いた。大軍が対峙したが決戦は行われず、わずかに4月2日秀吉軍が姥ヶ懐へ来襲し、翌3日に家康軍が二重堀砦を奇襲した小競り合いがあっただけで、この後、秀吉軍も岩崎山から二重堀まで土塁を築き、家康軍の来襲に備えた。秀吉は、廃城となっていた楽田城を改修して、4月6日、犬山城から前線近くに本陣を移したが、家康軍も小牧山から八幡塚まで土塁を築き、防備を固めた。4月6日夜から秀吉軍の一部が東へ向かう迂回作戦を開始し、これが4月9日の長久手の合戦へと発展する。家康軍は、4月7日に秀吉軍の動きを察知し、小牧村庄屋江崎善左衛門が道案内をつとめ秀吉軍を追撃し、9日の長久手の合戦に勝利し、翌朝までに小牧山城へ戻った。秀吉は長久手の敗報を聞いて主力を率いて出撃したが、家康が小牧山に戻ったことを知り、再び楽田に戻った。この後、両軍とも防備を固め、大きな戦いはなく、秀吉軍は5月1日には一部を残し主力を小牧地区から撤退させ、11月には和解が成立し、小牧山城は再び廃城となった。
このとき、家康軍の榊原康正が小牧山城に行った改修は、土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築くなど、防御工事をわずか5日間で完成させたといわれる。麓で行われた発掘調査によって、このときの徳川軍の改修は、小牧山の麓をめぐる二重の土塁や堀を新造したことが判明しており、虎口の形態も全て天正期のものとみられ、改修の規模はかなり大きいと見なければならない。平成16年度から山頂から中腹にかけて小牧山主郭地区の試掘調査を行っているが、家康軍の改修は、山麓をめぐる土塁・堀と虎口、中腹をめぐる堀と虎口に堀や土塁を築いたのみで、多くの曲輪には手が加わっていないと推定されるようになってきた。また、城下町の南の惣構の虎口の形態も小牧山城と同様、改修が行われたとみられる。
現在残る小牧山城は、この小牧・長久手の合戦の陣城跡である。現在の小牧山と昭和2年地形測量図をもとに小牧山の縄張りを図示したものが別図の小牧山城縄張図である。小牧山城の縄張は大きく5地区に区分できる。
主郭地区山頂の主郭を中心とする曲輪群中腹の横堀、尾根を切断する横堀で区画される
西側曲輪地区主郭地区西の尾根上の曲輪群中腹の横堀で区画される
大手曲輪地区南斜面の巨大なテラス状の曲輪群中腹の横堀から麓まで大手道の左右に分布する面積の大きな曲輪群
西側谷地区西北部の谷沿いの曲輪群中世寺院跡を利用したと推定
帯曲輪地区麓をめぐる堀と土塁の防御施設のすぐ内側に山麓をめぐる形に配置された帯曲輪群東から北にかけて面積が大きく、西側で狭い。大軍勢を収容し、防御を固め出撃の準備をしたと推定される。
このほかに、春日井郡小牧村古城絵図には、小牧山の東方に馬出の土塁が描かれており、現在の木津用水の東側まで城域が及んでいたことがわかる。

小牧山城縄張図のイラスト

小牧山城縄張図

小牧山城地区区分図のイラスト

小牧山城地区区分図

春日井郡小牧村古城絵図のイラスト

春日井郡小牧村古城絵図(名古屋市蓬左文庫蔵)

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