史跡小牧山の沿革 江戸時代以降

更新日:2017年08月31日

史跡の沿革

江戸時代

小牧村絵図解読図

春日井郡小牧村絵図解読図(小牧市史資料編2より、部分)

江戸時代に入り、小牧山は尾張藩領となり、「御勝利御開運の御陣跡」として大切にされ、一般の入山は禁止された。代々小牧村の庄屋を勤めた江崎家が小牧山を管理・保護した。また、織田信長の城下町に由来する小牧の町は、上街道の整備に伴い宿駅として整備されるため、尾張藩の命により、元和9年(1623年)、小牧山南麓の位置から小牧山東方の原野(現在の中心市街地)へと移転した。このため、信長の城下町は田畑となり、地名だけに都市の名残を残すことになった。小牧村絵図を見ると、江崎氏によって小牧山の周囲に竹垣が築かれ一般の入山を禁止していたこと、田畑の中に城下町の名残の規則的な道路や地名を認めることができる。
また、小牧山は江戸後期には竹材の産地でもあり、天保6年(1835年)、尾張藩江戸屋敷の普請用に竹三万本を送ったり、翌年市ヶ谷の長屋が家事で消失したときも竹材を船で江戸まで送っている。また、名古屋城内の竹垣も小牧山の竹を使ったという。

明治から史跡指定まで

明治維新により小牧山は政府の所有となる。明治5年(1872年)、江崎祐八に払い下げられるが翌年には県が買い戻し、県立の「小牧公園」として一般公開された。このとき、創垂館が曲輪003に建設された。
明治22年に再び尾張徳川家の所有となり、尾張徳川家は小牧山を保護するため、小牧山南麓に番人を置き、一定の制限を設けて公開し、登山料を徴収した。
昭和2年(1927年)に小牧山が国の史跡に指定されたのを機に、一般公開され、昭和5年には、小牧町の請願にもとづき、現状を変更しない条件で尾張徳川家は小牧山を小牧町へ寄贈した。

建設直後の小牧中学校の写真

建設直後の小牧中学校(昭和20年代前半)

戦中・戦後

太平洋戦争末期には小牧山も軍事利用の対象となり、一般の入山が禁止され、山頂に対空監視所が置かれ、南麓から山頂まで直線的に登る通称「兵隊道」が造られたり、南西麓に大規模な地下壕が掘られたりした。
戦後になると小牧山は大きな変貌を遂げる。昭和22年に小牧基地の米軍のブルドーザーによる校舎敷地の整地工事が行われ、新制小牧中学校が小牧山東麓に建設された。昭和24年には米軍小牧飛行場建設部隊による運動場整地工事が行われ、昭和26年に運動場の拡張工事が完了するなど、小牧山東麓の帯曲輪地区を削平して学校が建設された。その後、昭和39年に青年の家、昭和40年に市役所本庁舎、昭和43年に小牧市歴史館(小牧城)と、あいついで、公共施設が史跡地内に建設された。また、これら公共施設建設に伴い登山道の拡幅等も行われた。これらの整備により、一部の遺構が失われていった。
昭和57年、小牧山公開55周年記念事業の際、尾張徳川家に小牧山を小牧町へ寄贈したとき、「原形を変更しない」旨が約束されていたことが話題にのぼった。この頃から史跡地内に公共施設が存在すことを疑問とする声が上がり、施設を移転しようとする議論が起こり、まず、小牧中学校の移転、今回の整備へと進んでいった。
戦後の小牧山整備は、当初は、歴史館の建設など観光型の整備であったものが、昭和49年の「史蹟小牧山整備基本計画書」により、自然環境や景観の保存が打ち出され、主に植栽による整備が図られてきた。昭和62年には、小牧山北麓の緑地整備にあたって、小牧山で初めて発掘調査が実施され、土塁や曲輪の復元整備が実施された。また、平成5年には「小牧山周辺整備事業基本構想策定調査」が刊行され、歴史館以外の公共施設の史跡外への移転が明記された。

昭和20年代半ばに行われた小牧中学校運動場の造成の写真

小牧中学校運動場の造成(昭和20年代半ば)

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