小牧・長久手の合戦

更新日:2017年08月31日

小牧市の位置図のイラスト

天下統一の野望もむなしく、織田信長は、天正10年(1582年)本能寺の変であえない最後をとげた。その後、天下統一の事業を受け継いだのが羽柴秀吉である。
秀吉はこの変後、ただちに山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田家の跡目相続を決める清須会議で、信長の二男信雄、三男信孝を跡継ぎと認めず、信長の孫の三法師を跡継ぎとした。そして、信孝と結んで対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いに破り、信孝を知多郡野間で自害させ、信長の実質的後継者としての位置をかためた。
秀吉の勢力の拡大に信雄も警戒心を抱き、秀吉と戦うために三河の徳川家康に援助を求めた。天正12年、家康は主家織田氏を助けるという大義名分で、1万5千の兵を率い、清須城へ入り、信雄軍と合流する。

小牧・長久手の合戦 関連主要城館図のイラスト

天正12年3月、秀吉軍の池田恒興は、犬山城を奇襲して占拠、森長可は羽黒の八幡林で家康勢と戦って敗れた。秀吉は大坂で長可が敗れたことを聞き、直ちに三万の兵を率い、大垣から犬山へ着き戦況を聞いて、小牧山を北東から包囲するよう各武将を布陣させた。そして、みずから楽田に本陣をかまえた。
一方、信雄・家康連合軍は、小牧山に本陣をかまえ、小牧山から東へ連砦を築き、秀吉軍に対した。

小牧周辺における布陣

これで両軍の戦闘準備が整い、今にも天下分け目の戦いが開始されるばかりとなった。しかし、二度の小競り合いがあっただけで、互いに相手の出方をうかがい、両軍に大きな動きは見られなかった。
4月にはいって、秀吉軍に動きがあった。それは、家康の本拠地岡崎を奇襲しようという恒興の進言を、はじめ取り入れなかった秀吉が聞き入れ、作戦が始まった。
4月6日夜半、2万の大軍を四隊に分け、第一隊恒興、第二隊長可、第三隊堀秀政、第四隊三好秀次を隊長として、楽田から物狂峠を越え、山裾にそって大草、関田を経て上条に野営し、庄内川を渡って長久手方面へ向かった。しかし、この動きは、家康側に通ずる篠木の住民により小牧山の家康の本陣に通報された。それを聞いた家康は、ただちに水野忠重に命じて小幡城に向かわせ、自らは9300の兵を率い、如意、勝川を経て庄内川を渡り、小幡城へはいった。
4月9日早朝、家康軍先遣隊は白山林で秀吉軍の秀次隊を打ち破った。秀次隊は援軍を秀政に願い、秀政隊は桧ヶ根で家康軍先遣隊をいったん打破した。しかし、力を使い果たして、ついに北方へ退却した。家康軍本隊は長久手に進み、恒興・長可両軍を迎えたので、ついに一大決戦がはじまった。
両軍は激戦を重ねたが、やがて家康軍の優勢が目立ち、恒興・長可の両大将が戦死したので、同軍は崩れた。この日の戦いで、両軍の死者は秀吉軍2500、家康軍550であった。
この敗報を聞き、秀吉は2万の兵を率いて長久手へ向かったが、家康はいち早く兵をまとめ、遠回りして小牧山へ帰った。夜が明けて、このことを知った秀吉は、何らなすすべもなく、兵を率いて楽田に帰った。
その後、両軍のにらみあいが続いたが、大きな合戦をすることもなく、5月1日、秀吉軍の主力は小牧地区から退き、また家康軍も7月中旬には兵を引いた。
この年、11月、桑名で秀吉と信雄が和議を結び、次いで信雄のすすめで家康も秀吉と和解し、8ヶ月にわたる小牧・長久手の戦いは終わった。

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