岸田家の歴史と建物の変遷
岸田家の解説に入る前に小牧宿と上街道の説明をお読みください
小牧宿のルーツ
小牧宿の起源は、織田信長の小牧山城にさかのぼります。永禄6年(1563)に織田信長は、居城を清須から小牧山へ移し、武士だけでなく、清須から商工業者を移住させ、小牧山の南麓は城下町として栄えました。4年後に信長が岐阜へ移ると、この城下町は衰微しますが、町の一部が残りました。
小牧宿、現在地へ
江戸時代に入り、尾張藩は上街道(木曽街道)の整備に着手しました。以前の街道は、清須から小牧山の西を通って犬山を経て、中山道の鵜沼へと続いていましたが、新しい街道は、小牧山の東を通ることになりました。これにともない、尾張藩は、小牧の町を移転させることを小牧村の庄屋江崎善左衛門に命じました。この移転は、元和9年(1624)に始り、寛永5年(1628)にはほぼ完了し、小牧は街道沿いの宿駅として整備されました。
宿場町の町並み
小牧宿は、上街道につくられた宿場町です。宝暦年間の作成と推定される『小牧宿絵図』から、下町・中町・本町・横町・上之町に分かれていました。また、この街道の東側には東馬場町、西側には西馬場町も形成されていました。小牧宿は、他の宿場町同様、間口が狭く奥行きの深い町屋形式とよばれる地割りとなっていました。
町の南端には木戸があり、木戸を入ったところに高札場がありました。下町の西側には尾張徳川家の別荘・小牧御殿(後には小牧代官所)がありました。
岸田家は、御殿の入口の辻から南へ2軒目・3軒目の敷地にあたり、この絵図が書かれた当時は、まだ、建てられていないことがわかります。小牧宿の本陣・小牧村の庄屋を代々務めた江崎家の屋敷は、下町と中町の境界付近にあり、間口六間半の大きさでした。中町・本町は商人の家屋が多く、まっすぐ北上すると、戒蔵院に突き当たります。戒蔵院から東が横町で、街道は横町から北へ鍵状に曲がり北上します。ここが上之町で、上之町の北端は街道の片側にしか町並みがなく、後には片町と呼ばれるようになります。
上街道
上街道は名古屋の清水口から味鋺、味美、春日井を経て、小牧、楽田、善師野、土田の各地を経て伏見で中山道と合流している十里八丁三ケ宿の街道でした。途中、楽田の追分けで犬山へ行く稲置街道と分岐していました。この街道は、尾張藩独自で設けた街道で、道幅三間二尺(約6メートル)、道の内側に高さ三尺の土手を築き、道の両側に松並木や柳が植えられ、一里塚として榎の木が植えられました。

岸田家について
古くは岡島姓を名乗る旧家で、天保年間(1830〜44)に岸田七右衛門不りんが、代々小牧宿の本陣・小牧村の庄屋を務めてきた江崎家の養嗣子となり、小牧の名家江崎家と深いつながりを持つようになりました。
岸田家の屋敷は小牧代官所の東に位置し、脇本陣としての機能も果たしていました。
岸田七右衛門は天保川の開削などに尽力し、岸田家には小牧村の庄屋が江戸時代末期に書き記した古文書が多数残っています。
小牧宿と岸田家の年表
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戦国時代 |
永禄6年(1563) |
織田信長が小牧山に小牧山城を築き、小牧山南麓に城下町を造る。 |
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永禄10年(1567) |
織田信長は美濃の岐阜城(稲葉山城)へ移り、小牧山城は廃城となる。 | |
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天正12年(1584) |
小牧・長久手の合戦が起こり、徳川家康軍は信長の小牧山城に改修を加えて陣城とした。町の南の惣構えにも改修を加えた。 | |
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江戸時代 |
元和9年(1624) |
尾張藩の命により、小牧の町場は小牧山の東、1.5キロメートルの原野への移転が始る。 |
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寛永2年(1625) |
初代尾張藩主義直が小牧御殿を建てる | |
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寛永5年(1628) |
町の移転がほぼ完了して、小牧は新しい上街道沿いに宿場町として整備される。 | |
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寛永10年(1636) |
上街道を使って初めて参勤交代が行われる。 | |
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寛文11年(1671) |
「寛文村々覚書」小牧宿の家数255、人口1488 | |
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宝暦年間 |
「春日井郡小牧宿絵図」岸田家はまだ建てられていない | |
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天明2年(1782) |
小牧御殿の一角に小牧代官所が設置される | |
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19世紀初頭 |
この頃、岸田家が建てられる。 | |
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天保年間 |
岸田家1回目の大改造。 | |
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弘化三年(1846) |
最初の家相図が作られる家相図で検討した改築は行われなかった | |
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安政三年(1856) |
2回目の家相図が作られる | |
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明治時代 |
明治初期 |
岸田家は度量衡の商売を始め、みせ部分を改造 |
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明治24年 |
濃尾地震で被害を受け、応急的な修理を行う。 |
岸田家文書
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岸田家には多くの古文書が保存されていますが、そのうち代表的なものを紹介します。 1.人別御改帳 2.御用願達留帳 3.御触状留記 |
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岸田家の変遷過程
修理事業に伴う部材の痕跡調査などによって、岸田家の建築年代や建物の変遷が、建築史の専門家によって明らかにされました。
その成果の概要を紹介します。
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当初の姿 1800年頃 |
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表裏2室しか部屋がない、一般的な町家として建てられました。 この家の特色の一つは、座敷の上の部屋に斜めになった梁(登り梁)を使い、人が立って歩けるようにしていることです。この部屋は最初、窓がなく外観から分からないので「隠し部屋」とも呼ばれ、ざしきの押入れから昇降するようになっていました。 |
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大改造後の姿 天保年間 (1830-43) |
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背面側を増築する大改造が行われます。 これで三列の部屋を持つ大規模な町屋になりました。 表の八畳の座敷は前半分を土間とし、武士などの特別な客を迎える玄関の間の役割をもたせました。 1・2階ともに出格子付きの窓がこのときに作られ、立派な外観となりました。 大火後には、表側の屋根上に火よけの神様である秋葉権現の祠がまつられました。これは現在も残っています。 今回の修理事業では、この時期の姿に戻しました。 |
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明治維新後の姿 |
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明治維新をむかえて、岸田家は度量衡の商売(さおばかりなどの販売)を始めました。そのために「にわみせ」には、縁台を設け、板の間の「みせ」を拡張しました。玄関の間は必要がなくなったので、再び八畳の「なかじき」に戻されました。 明治24年にこの地方をおそった濃尾地震でも、岸田家住宅は軽快な構造が幸いして倒れませんでしたが、各所がゆがんだり壊れたので、屋根や土間に補修と補強が行われました。 |
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岸田家断面図 |
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右側の道に面した側に当初の建物が建てられ、後の天保年間に背面側が増築されます。
なお、江戸時代には現在の母屋のほかに、母屋の奥、現在の庭の部分にも建物や土蔵がありました。 |
| 弘化3年家相図 |
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おおむね天保年間の大改造後の姿と一致しますが、現在、残る母屋の奥には多数の部屋を持つ建物や蔵があったことがわかります |
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岸田家住宅の位置づけ
住宅建築には、武士などが使用したいわゆる書院造りの住宅や茶室のほかに、庶民が使用した民家があります。
民家は、都市生活に適合した町家、農村生活に適合した農家、漁村生活に適合した漁家などに分かれますが、岸田家住宅は町家に属します。町家は、都市の建築ですから農家のように建物の前に作業庭が必要でなく、表通りに面して建ちます。
そして表通りから裏庭までぬける土間があり、土間にそって板の間や座敷があります。
通り庭と呼ばれるこのような土間は、表通りから入りやすく、町行く人々と交渉したり、家内で生産したり買い入れた商品を売り買いするのにも適していました。
そこでこのような町家は平安時代に生まれ、住宅が仕事場でもあった近代以前には全国に広く普及したのです。
したがって岸田家住宅の姿は、小牧宿という都市の姿を残していることになります。
土間(通り庭)は、そのような場所であり、これに面した板敷きに仕切りがなくミセと呼ばれるのは、そこが主たる交渉の場であったからです。
岸田家住宅の特色
岸田家は19世紀初頭の建築と考えられ、県下でも最も古い町屋の一つです。
岸田家住宅の特色は、一般の町家として建てられた建物が庄屋や脇本陣として使えるように改造されている点にもあります。
改造の詳しい過程は、上の表に示していますが、江崎家から養嗣子になった岸田七右衛門不りん、天保年間に小牧宿の年寄や小牧村の庄屋になり、天保川の開削後には西之島の庄屋も兼ねたことなどによって、家の規模拡大や使い勝手の向上が必要になったからとみられます。
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