上御園遺跡の発掘調査

更新日:2017年08月31日

城下町の発掘調査

上御園遺跡の発掘調査

上御園遺跡発掘調査柱穴・土こうの写真

上御園遺跡発掘調査柱穴・土こう

平成16年から堀の内土地区画整理事業に伴い上御園遺跡の発掘調査を開始した。従来の上御園遺跡の推定範囲は道路に沿った畑地部分に限定していたが、城下町の存在が予想されるため、事業用地全体に試掘調査を実施したところ、水田部分でもほぼ全域にわたって遺構が良好な状態で遺存していることが判明した。このため、区画整理事業によって影響を受ける道路、調整池、公園部分のほぼ全体を3か年計画で調査することとした。

上御園遺跡遺物出土状況の写真

上御園遺跡遺物出土状況

平成16年から調査に着手したところ、遺構の濃淡はあるものの全体に城下町の遺跡が及んでいて、信長の城下町建設に伴い新たに町が造られ、江戸時代初めに廃絶されるまで継続していることが判明した。明治の地積図とほぼ同じ方位で水路や掘立柱建物や柱穴列を確認し、地積図には信長の城下町の地割が色濃く反映していることを実証した。
地積図の分析から、新町遺跡と異なり、商工業者が集住した部分と考えられていたが、鍛冶関係の出土品や間口が狭く奥行きが深い地割を示す遺構の配置が認められ、当初の推定が正しいことが明らかになった。また、新町遺跡と異なり、江戸時代初期まで町が継続しており、信長の岐阜移転後も、この部分では城下町の名残の町場が残り、元和9年に上街道(木曾街道)建設に伴い現在の小牧中心市街地の位置へ宿駅として移転するまで存続していたことを確認した。
上御園遺跡は、千田嘉博氏の小牧城下町復元で、紺屋町・鍛冶屋町・新町にあたるが、中央部の鍛冶屋町推定地で鍛冶関係出土品が多く出土していることなど興味深い発見が続いている。現在、調査は3分の2が終了したところだが、今後、出土遺物の詳細な検討などで、さらに新たな発見が期待されている。

上御園遺跡発掘調査成果と小牧城下町の構造

(平成19年1月13日に開催した上御園遺跡発掘調査現地説明会の発表内容)

上御園遺跡第1次から3次調査全体図のイラスト

上の図は、現地説明会で配布した上御園遺跡の発掘全体図である。調査が終了したばかりで、出土遺物等の詳細な検討はこれから始めるので、現段階での見解であるが、調査成果から城下町の構造を推定してみたい。
町は東西方向と南北方向の直線的な街路によって、整然と区画されている。図では、南北方向の紺屋町筋、鍛治屋町筋、新町筋と、調査区南を東西に走る街路で整然と長方形の街区に区画されている。区画の規模は東西方向では、120メートルから130メートルである。この区画は、町筋と町筋の中間を南北に走る区画溝(水路)でさらに区画される。その内部に間口が狭く奥行きの深い短冊形地割が配置されていたと推定できる。
各地割、つまり1軒分の敷地は、間口が3.5間から4間(6.3メートルから7.2メートル)のものが多く、奥行きは30間から35間(54メートルから63メートル)で、道路沿いに掘立柱建物が配置され、建物の奥に井戸や土こう、建物などが配置されている。街路から奥行き16間から19間(28.8メートルから34.2メートル)の間は遺構の密度が濃く、生活圏があったと見られるのに対して、その奥は区画溝までの間、遺構の密度が低く、庭や畑であったと推定される。
また、街路ごとに町屋の様子が異なるようである。中央の鍛冶屋町筋では道の両側から鍛冶関係の遺物が出土していて、道の両側に鍛治屋が立ち並んでいたとみられる。一方、紺屋町筋では、間口も広く、大形の建物が配置されているのが特徴である。新町筋では建物は比較的小規模だが、街路と水路の中間の奥まった部分に建物が配置されるなどの特徴がみられる。これらは、町筋ごとに業種の異なる町家が配置されたことを示唆しているように思える。
これは、最終段階の江戸時代初めに移転する直前の町の様子ではないかとする意見もあるだろうが、出土遺物から永禄年間の織田信長の時代から始まっていることが確認でき、60年後に移転して廃絶されるが、町の構造に大幅な変更が加えられた様子はない。また、今回の調査区の北部では遺構が濃く江戸時代初めの遺物の出土が多いのに対して、南部では遺構の密度が低く江戸時代の遺物も少なく、町は信長が岐阜へ移転した後、縮小したとみられる。したがって、今回明らかになった町の基本構造は永禄6年に織田信長が原野に町を開いたときに形成されたと考えている。

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