篠岡古窯跡群

更新日:2017年08月31日

小牧市の東部丘陵には、110基以上の窯跡が見つかっています。丘陵の斜面に細長い溝状の穴を掘って、粘土で天井をつくった半地下式の「あな窯」と呼ばれる構造の窯です。7世紀から8世紀には、須恵器を焼いていますが、9世紀後半から尾張で独自に生産されるようになる灰釉陶器(瓷器)を焼くようになります。

古代の尾張では焼き物の生産が盛んで、名古屋市東部を中心とする猿投窯と篠岡を中心とする尾北窯が二大産地でした。尾張の須恵器は、猿投窯で生産を開始しますが、7世紀後半から8世紀前半にかけては、尾北窯に中心が移ります。この時期に尾北窯で焼かれた製品の特色は、多様な硯、特殊な器、文字資料が豊富なこと、一緒に瓦を焼いていることなどがあります。瓦は、尾張の寺院で使われていますし、篠岡78号窯(城山)から出土した須恵器に書かれた文字は、奈良藤原宮出土の須恵器に書かれた文字と酷似し、この窯の製品が奈良まで運ばれたことがわかっています。

7世紀後半から、尾張地方には古代寺院が次々に造られます。大山廃寺もそのひとつです。壬申の乱(672)の後、天武天皇の側で戦った尾張の豪族は、中央との結びつきを強めます。篠岡古窯跡群を中心とする尾北窯は、このような寺院建立や中央政権との密接な結びつきを背景に、寺院や役所で使用する須恵器や瓦を焼いたものと考えられています。

平安時代に尾張の猿投窯で灰釉陶器の生産が開始されます。それまでの須恵器が黒っぽい色で、素焼きの焼き物であったのに対して、灰釉陶器は白い色で、木灰を主な原料とした黄緑色の釉薬をかけています。文献に残る「白瓷」と考えられ、須恵器と同じ半地下式のあな窯で焼かれ、初期には須恵器と灰釉陶器が同じ窯で焼かれています。篠岡古窯跡群を中心とする尾北古窯跡群は、同じ尾張国内の窯業生産地として、猿投窯に続いて9世紀後半に須恵器から灰釉陶器生産へと転換します。

篠岡古窯跡群で生産された灰釉陶器は、この近くの尾張西部では一般の集落でもかなりの量が出土しますが、畿内の奈良や京都へも送られ、東海地方の周辺では役所や寺社など特殊な遺跡から出土する貴重品でした。

灰釉陶器と同じ時期に、緑釉陶器も生産されます。唐三彩の系譜をひく焼き物ですが、緑色の釉薬だけを施す焼き物です。緑釉陶器は専用の窯で焼かれることが多いのですが、篠岡では、灰釉陶器を焼いたあな窯で焼いています。緑釉陶器は生産地が限定され、尾張では猿投窯の鳴海地区と篠岡古窯跡群だけで焼かれた貴重品です。篠岡産と見られる緑釉陶器が畿内地方や東海地方の周辺で出土しています。

篠岡古窯跡群では10世紀から11世紀前半にかけて最盛期を迎えます。灰釉陶器生産は、その後、大量生産を志向し、粗雑化が進み、力を増してきた農民層を対象とした製品に変わっていき、12世紀には、釉薬を施さない山茶碗(白瓷系陶器)を生産するようになります。篠岡古窯跡群は、この12世紀前半の山茶碗生産を最後に生産を終わります。

尾北窯分布図のイラスト

尾北窯分布図

篠岡古窯跡群分布図のイラスト

篠岡古窯跡群分布図

篠岡古窯跡群年表

篠岡古窯跡群年表

篠岡96号窯

篠岡96号窯の写真

丘陵の斜面に築かれたあな窯で、天井は失われています。

篠岡96号窯、篠岡87号窯

篠岡96号窯、篠岡87号窯の写真

窯跡に上下・左右に規則的に掘られた溝は、窯の構造をみるために調査で床や壁を断ち割った溝でもともとあったものではありません。
(現在の桃花台ニュータウン、城山五丁目地内にあった窯跡です。)

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