史跡小牧山概要版

更新日:2017年08月31日

歴史

戦国時代 永禄6年(1563年)、織田信長が小牧山城を築き、清須城から居城を移す。
また、小牧山南麓に城下町を計画的に整備。
4年後に美濃の斎藤龍興を攻略して稲葉山城(岐阜)へ移り、小牧山城は廃城となる。

安土桃山時代 天正12年(1584年)、小牧・長久手の合戦が起こり、犬山方面から南下する豊臣秀吉軍に対抗して、織田信雄・徳川家康連合軍が小牧山城跡を改修し陣城を築く。和解が成立し、小牧山城は再び廃城となる。

江戸時代 将軍家開祖の徳川家康公「御勝利御開運の御陣跡」として尾張藩領となり、一般の入山が禁止される。
この結果、山中の堀や土塁などは残存状態が非常に良好で、日本の城郭史上、貴重な資料となっている。
また、信長の城下町の名残の町場は、尾張藩の上街道整備に伴い 小牧山の東(現在の中心市街地)へ移転して宿駅として整備され、城下町跡は田畑となった。

指定

  • 国指定史跡(昭和2年10月26日)
  • 史跡指定面積 205,956.24平方メートル

旧小牧中学校用地の発掘調査でわかったこと

小牧中学校跡地の小牧山東麓は、永禄年間の信長の城の時代には、一辺45メートルほどの方形の武家屋敷の敷地が山を取り巻くように配置されていた。
武家屋敷の境には、幅2メートル以上の堀が掘られた。
東南隅には、小牧山城では最大の規模を持つ曲輪402があり、一辺75メートルの方形の武家屋敷であったとみられる。
信長の館跡の可能性があるといわれている。

これらの武家屋敷群は、小牧・長久手の合戦で、土塁を盛り上げるための土を掘ったり、戦後の小牧中学校の造成で削られたりしたため、屋敷内の建物跡は残っていないが、深く掘られた堀や井戸の跡が発見された。

天正12年、小牧・長久手の合戦が起こると、犬山城を攻め落とし、南下しようとする豊臣秀吉の軍勢に対して、徳川家康の軍勢は小牧山の信長の城跡に大規模な改修を施し、陣城(戦争のための臨時的な城)を築いた。
短期間に小牧山麓を一周する堀や二重の土塁を築き、虎口(出入口)は全て作り直した。
信長の武家屋敷跡の堀や井戸は、このとき築かれた土塁によって埋められている。
戦いが終わると、小牧山城は再び使われることなく、放置され、現在残る小牧山の城の遺構はこのときのものである。

小牧城実測図の写真

昭和2年地形測量図

発掘された武家屋敷跡の堀の写真

発掘された武家屋敷跡(曲輪402)の堀

小牧城下町

永禄6年(1563年)、織田信長が小牧山に城を築き、清須城から移ると、当時原野であった小牧山の南麓に城下町を建設した。

近年の研究では、明治時代の地籍図や江戸時代の村絵図を使い、下図のような城下町が計画的に築かれ、永禄10年に信長が美濃の稲葉山城(岐阜)に移るまで、尾張の中心を占めたと考えるようになってきた。

平成7年に新小牧中学校用地で行った発掘調査で、城下町の存在が実証された。
規則的に配置された排水溝や堀と土塁で囲まれていたとみられる一辺40メートル程の方形の武家屋敷跡を発見した。
その南側では、下級武士団などが居住したとみられる地割も発見した。
ここから、永禄 期の瀬戸美濃産陶器や土師器が多量に出土し、多数の人々が生活していたことが判明した。
調査地点は、城下町の東部にあたり、このあたり一帯は、廃城によって町が移転したことが判明した。
しかし、商工業者が集住した城下町の西部では、廃城後も町の一部が存続した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦では小牧村の庄屋を勤めた江崎家が、徳川軍に協力しており、文禄3年(1594年)には家数105軒であったという記録が残っている。
この城下町の名残の町場は、江戸時代初めに尾張藩の命により小牧山の東(現在の中心市街地)に移転し、上街道(木曽街道)の宿駅として発展し、現在に至っている。

小牧城下町概念図

小牧城下町概念図

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