小牧付近の城砦(秀吉軍)

更新日:2017年08月31日

小牧周辺における両軍の布陣のイラスト

内久保砦(秀吉軍)

小牧・長久手の合戦時に、秀吉軍の砦として築かれたもので、東西九間、南北十三間の規模であったとされる。蜂屋出羽守頼隆・金森長近等を将とした、三千余が陣を敷いた。
現在、内久保山西南麓にある三明神社周辺が砦の位置と考えられるが、正確な位置ははっきりしない。

大正10年頃北より内久保砦を望む様子の写真

大正10年頃北より内久保砦を望む

現在の内久保砦の写真

岩崎山砦(秀吉軍)

岩崎山山頂に設けられた砦であるが、規模は不明。秀吉が小牧山に対して砦を構え、稲葉一鉄・貞通父子等を将として兵四千で守らせた。
岩崎山の標高は54.9メートルであり、現在でも、山頂付近からは小牧山周辺を一望にすることができる。

大正10年頃岩崎山砦から小牧山を望む様子の写真

大正10年頃岩崎山砦から小牧山を望む

岩崎山砦跡の写真

外久保砦(秀吉軍)

久保山の西端に設けられた砦。比高34メートルの丘の上に築かれた東西二十三間、南北十六間の砦。守将・兵力共に不明。
長久手の合戦後は、秀吉自らが本陣の楽田城からこの砦に出て全軍を指揮したと伝えられ、太閤山と呼ばれている。現在の熊野神社社地一帯が砦の位置と考えられる。社殿前には砦跡を紹介する案内板、北西へ伸びる道の先には砦跡を示す石碑が建てられている。

大正10年頃南方より外久保砦を望む様子の写真

大正10年頃南方より外久保砦を望む

外久保砦の写真

小松寺山砦(秀吉軍)

小松寺山砦には二つの砦があり、西砦は小松寺のあたり、東砦は旧小松寺山一帯にあったとされ、その規模は、西砦は東西八間、南北十間、東砦は十間四方であったと伝えられる。守将は丹羽長秀(長秀の子長重とする説もある)で、八千余兵で陣を敷いた。
小松寺山は、かつては小牧山と肩を並べる高さがあったが、昭和四十年代の開発で整地され、現在は小松寺団地となっている。小松寺山砦を示す案内板と石柱は、小松寺本堂の東にある八所社・熊野社合殿のところに建てられている。

大正10年頃南方より小松寺山砦を望む様子の写真

大正10年頃南方より小松寺山砦を望む

小松寺山砦の写真

田中砦(秀吉軍)

秀吉方の砦跡で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰等の将が守備したとされるが、兵力は不明。砦の規模は東西十六間、南北三十間という。
秀吉は岩崎山の南麓茶屋前より田中、二重堀の砦に至る、二十余町にわたる土塁をわずか一日で築いたとされ、これに対し、家康も小牧山北麓より八幡塚に至る土塁を築いたといわれている。
砦の位置を示すものとして、三ツ山会館(三ツ山古墳)前に石碑が建てられている。

大正10年頃南西より田中砦跡を望む様子の写真

大正10年頃南西より田中砦跡を望む

田中砦の写真

二重堀砦跡(秀吉軍)

秀吉軍が小牧山に対して二重堀の地に砦を設けた。秀吉軍の最前線として、特に重視された。規模は、東西五十五間、南北四十間、土塁の高さは五尺という。この砦は、日根野弘就兄弟等で守らせたが、天正十二年(1584年)四月の家康軍の逆襲により、多数の死傷者がでた。
現在は、個人宅西南隅に接する道路沿いのところに、「日根野備中守弘就砦跡」と刻まれた碑文が置かれている。これは同宅の裏にある竹藪の中にあったものを移したものである。砦の位置は耕地整理のため、当時の跡をとどめないが、二重堀の集落の北端あたりにあったとされる。

二重堀砦の写真
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